
No.1
北海道にとって、本州との間にある海は特別の思い入れがあります。今でこそ本州と北海道との間の移動は自由になり、距離の隔たりを感じることはありません。かつては、歌にも歌われた「青函連絡船」が唯一の往来する手段であった時期があります。 函館から青森まで青函連絡船に乗ること4時間、船に弱い人にとっては地獄の時間となっておりました。また、台風がくれば、すぐに欠航してしまい、重要なイベントに欠席を余儀なくされることも多く、何とかならないものかと思い悩んでおりました。 そんな忌まわしい海、それが「津軽海峡」であり、北海道の人は愛着を込めて「しょっぱい河」と呼んでおります。
私も何度となく、その「しょっぱい河」を渡り、幼いころから聞かされていた話がありました。このことが私の人生に大きく影響を与えようとは思いませんでした。それは、昭和29年9月26日の台風15号によって函館を出航した青函連絡船洞爺丸が七重浜沖で座礁転覆した事件がありました。この沈没で乗客乗員1092人が死亡、83人が行方不明となり、1隻の船の遭難としては、タイタニック号沈没に次ぐ世界第2位の大惨事となりました。私の家族の知り合いにも犠牲になられた方がいたと聞いています。
この事故がきっかけで、津軽海峡を鉄道の海底トンネルで結ぼうという機運が高まり、青函トンネルが計画されたことは周知の事実であります。そんな話を聞きながら育ちながらいつしか本州と北海道をトンネルで陸続きにしたいという思いが芽生えておりました。
いつしかそんなことも忘れているうちに大学に進学し、何かに導かれるように土木を専攻しておりました。そうして青函トンネルの調査坑を掘り始めている事を知り、昔の夢を思い出しました。「そうだ青函トンネルを掘ろう。」
青函トンネルのプロジェクトに参加している会社の入社試験に行き、社長面接では「君は何をやりたいのか。」との質問に対して、「青函トンネル工事に従事してみたい。」と答えました。幸いにもその会社に入社することができ、新入生で配属された現場が青函トンネル作業所でした。現場で仕事をしていく中で新幹線を通すためのトンネルであることを知り、心が躍るほどの感激を感じたのを今でも覚えております。その当時、台風等の気候の影響を受けることなく、札幌から東京へ5時間でいくことができるというのは夢のような事でした。
竜飛岬での生活は、厳しい自然以外、周りには何もないそんな生活でしたが、それほど辛くは感じませんでした。早く新幹線を通したいという思いでいっぱいでした。そんな中で6年間が過ぎ、トンネルの貫通を迎え、その感激はたとえようのないものでした。
その後、現場を離れ、聞こえてきたのは、在来線の投入、新幹線建設の凍結、青函トンネル不要論など工事に携わったものにとってとても辛いものでした。私の夢、「北海道と本州とを陸続きにするという夢」は実現しましたが、新たな「新幹線を通すという夢」が叶うまでは青函トンネルは通らないという拘りがあり、本当は、自分が手がけた青函トンネルを早く電車で通過してみたいのですが、今でもその拘りを堅く守っております。
いつになったら新幹線で札幌まで行けるのか…。
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